随感随筆

日々感じたことを

あなたも私も畜生と何も変わらない

自分とはなんなのか

ということを考えたことはないだろうか。

自分とは何かというのを初めて意識しだしたのはいつだったのか思い出してみる。確か、10代前半だった。

今思えば、明確に自分というのをわかっていない故に自分の中で定義づけをしようとしていたように思う。


頭の中で、理想の自分を創り出し、生身の自分と同一化を図る。これこそ自己同一性なのではないかと思う。

己の内で同一化が進んで行くに連れて、本来の姿が自分の中で創り上げた自分だと思い込む。そして、そこから世界を眺めるようになる。これが今の「自分」であるという思い込むようになる。こうなってはそう簡単には抜け出せない。これが本来の自分だと信じてやまないからだ。


あなたが自分らしさだと思っているものはだたの虚像だ。或いは魂の入ってない器という言い方もできる。


ただ、この事実に気付いたからといって特別悩むことはない。

多くの人は、この虚像とも言える「自分」であり続けたい。または、虚像と同一化を図る為に、必死で(頭の中の)自分にしがみつく。自分が虚像を創りあげているということにすら気づいていない。


「こんなの自分らしくない」と愚痴を漏らす人がいたとしよう。

それは、自分の理想と実際の自分がかけ離れているから認められないだけなのではないだろうか。

ここでいう「理想の自分」とは自分の中で創り上げた虚像を指す。


自分を客観的に見つめ、そこからどう対策を立てるべきか考えるということが必要だ。こういう事を書いている自分も、頭ではわかってはいるものの実際そのような状況になると冷静になれない。ここが人間の難しい所であり、弱点とも言える。


つまり何が言いたいのか


繰り返しいうが、本当の自分だと思っているものは、自分の中で創り上げた虚像であるという事だ。

人間とはただ肉体という器に封じ込められ、意思を持って動く魂のようなものだと考えている。


自分が特別な存在なわけでもなく、

他の人と、他の動物と何も変わらないということだ。


生まれたことに何も意味はなく、何をする為に生まれたわけでもなく、

ただ、人間も畜生も草木も寿命が来るまで、「生」に縛られながら命を燃やしているものだと思う。


この考え方は、般若心経の空即是色、色即是空と似ているかもしれない。


でも、私はこの世に生まれ落ちてから今まで、大切なものや綺麗なものをたくさん知ることができた。どうせ もって50年くらいの命なら自分が大切だと思えるものに殉じて死ねること。それが私の本懐なのである。


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